はりまノマド

西明石「地酒と辺境 はりまのまど」瀬尾亮ブログ

伊尾木川再訪 その1

2019年11月24日
 
娘の山村留学先、木頭北川のお祭りに参加して帰りは自転車で高知方面へ。
と言うと国道の四ツ足トンネルを越えるのが普通だけど、今回は千本谷林道から安芸市東川方面へ。
天気を読みながら、どこから帰るか考えていたのだけど午後まで持ちそうだったから、去年の春に自転車で越えた峠を反対側から。
ずっと再訪したかったのだけど、なかなか機会がなく、偶然時間が取れたのはその時以来自転車で四国に来たこのタイミングだった。

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北川集落の朝
 
北川からでも県境まで標高差550mあって結構ハードなのだけど、朝一の元気なうちに峠越えしてしまえば後は下るだけ。標高500mの北川からスタートできるのは一番楽なのかもしれない。
国道から外れるといきなりダート。
だけど割合整地されている方だ。
スピードは出せないけど5キロほど走ればまた舗装路に。
ロードバイクに付けられる中でもタフなタイヤに履き替えてきたのが正解で、ダートでも落石や木の枝踏んでしまってもパンクは無し。
前回は計6回パンクして大変だったから何事もなく進めるありがたさを感じる。

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千本谷林道を行く
 
北川からひーこら2時間かかって峠の駒背越トンネル抜けると高知県
ここにきて衝撃の事実、まさかの通行止看板。
全面通行止、期限無しだと。
この道が下流までの唯一の道路で迂回路がないばかりか、途中から別の峠へ抜ける林道も通行止めだから、中流域の現場まで行って通れなかったらこの峠まで引き返すしかない。
戻るなら今のうちだけど、うーん、まいっか、崖崩れの復旧工事現場ならチャリ1台通れる隙間はあるだろう。
 

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これみたらびびる
徳島県側の林道入口に規制情報がなかったので突っ込んできてしまったが、高知県側の情報収集もしておけばよかった。
ここでスマホでちゃちゃっとネット検索、何でしないの?って思われるかもしれないけど、この峠から見渡せるはるか下流の40キロくらいまでわずか3世帯しか現住していないこの流域全体携帯の電波は飛んでいない。
「人の住んでいる場所なら電波は届く筈」という思い込みで前回失敗していたので地図データだけはダウンロードしてきたのだけど、やはり僻地では何が起こるかわからない。
 
それより気になるのは道路が通行止ならこの先にあるわずか3世帯の最奥集落の人たちはどうしているのだろう?
これを機に離村してしまっているなんてこともあり得るかと心配になる。
もしここの住人がいなくなってしまったらこの川の中流域から源流までは無住の土地ということになる。
わずか3世帯でも暮らす人がいると知っているから、この広い流域にまたがる全体が「生活の場」という認識になっているのだけど、その前提がもし崩れてしまったらこの世界を見る目が根底から変わってしまう。

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峠から高知県側を見下ろす
 
この標高差を駆け下りて良いものかどうか内心不安ながら一気に500m下って標高650mの最奥集落。
不安に思いながら集落に入ったけど、養魚場に立つ男性が見えた。
よかった。
そしてこの家の方には前回来た時に会えていなかったので話を聞く。
 

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最奥集落の養魚場
 
まず、全面通行止は解除されて今は時間制限はあるけれど通れるらしい。
多分峠の看板を片付け忘れていたのだろう。
今年の8月に崖崩れで1ヶ月以上通行止だったらしい。
徳島側に抜けられるので完全に孤立する訳ではないけど大幅な遠回りなので大変だったそう。
去年の西日本豪雨の後はもっと長期間通れなかったらしいから、この雨の多い山村に暮らすことの苦労を思い知る。
 
 
この最奥の集落は広い山中に小集落が点在する形で、中でも一番上流部にあるこの養魚場集落に2世帯3人、1km下の集落に1人。
そのあとは下流30kmの簡易郵便局のある集落まで、他の集落は全戸離村してしまって無住の土地となってしまったらしい。
昭和55年までこの集落にも学校があったけど廃校になり、中流の小中学校までこのご主人がスクールバスを運転していたらしい。
廃校になったと言ってもそのは時点で40人くらい子どもがいたそうだから今とは感覚が違う。
小中学校が廃校になるのとこの最奥集落から子どもがいなくなるのとどちらが早かったのかは聞き忘れたけど、スクールバスが稼働していたのも20年くらい前までの話らしい。
その後どんどん人は減り、前年とうとう下流の入河内にあった小学校もなくなって、この流域、昭和30年まで独立した行政区域だった旧東川村から学校がなくなってしまった。
 
学校がなくなって集落が寂れていくのは他でも目にしているけれど、それにしてもこの地域はそれが速すぎるように見える。
限界集落という言葉はもう当たり前のように聞くようになったけど、本当の限界が来た姿を見せられているのだと思う。
商店や病院のある海沿いの街からのアクセスが大変なこの地域で高齢世帯が残り数軒になって、それでも残るのはかなり厳しいと想像できる。
 
この集落はお話聞いた養魚場の方がご夫婦60代前後で、お仕事はもう養魚場以外引退してしまったそうだけどまだまだ元気に動ける年齢なのが大きいのかもしれない。
隣で一人暮しする80代のおばあさんは下流安芸市から息子さんがたまに来てくれていると聞いたけれど、集落内に比較的若い人がいる安心感もあるのだろうかと想像する。
隣のおばあさんには去年来た時に話を聞いて、今回はいらっしゃらなかったけど、庭を綺麗に手入れされていてまだまだ元気に過ごされていることが知れる。
 

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もう一人少し下ったところにある家に住んでいる方は70歳くらいの男性1人で、この方は猟師さんだそう。
多くの犬に吠えたてられて驚いたのだが、猟犬だということ。
 
他に市街地の方に住んでいてたまに来る人もいるそうだが、年々来るペースも落ちてきているとのことだった。
話を聞いていた養魚場のすぐ横の斜面にも柚子の実がたわわに成っていたが、ここは街に下りた人の所有らしく、柚子の収穫シーズンに入って1か月近く経ってもまだ来られていないことがわかる。
 
野暮だとは思いながら「よそからここに住んでみたいと訪れる人はいないのですか?」と聞いてみた。
「ははは、来るはずがない。とにかく仕事が無いから」
そんな質問されること自体思っても見なかったという反応だった。
 
「けれどここの暮らしはいい。面倒な付き合いもないから気楽に暮らせる。ここにおったらインフルエンザとかまず心配ない」と笑う。
確かに、田舎でよく言う「人付き合いの煩わしさ」など言うような規模でなくなってしまっている。
とにかく「人が集まって暮らす場所」に起こりうる悩みや面倒ごとと切り離されているのだ。
その代わりに「不便な環境」があると、外の目では思ってしまうが、ずっとここに住む身にそもそも便利や不便という区別が無いのかもしれない。
永くこの地に暮らす中で不便や便利を意識させれる場面は多々立ち現れて来たのだろうけど、それらを通り越してゆくうちに諸々ひっくるめてのここでの暮らしが出来上がっているのだろう。
 
「ずっと暮らしてきた場所が一番」という言葉は過疎の集落で話を聞くとよく耳にするのだが、もしかして自分はその意味をごくごく表面的に捉えていたのかもと思わされる。
ぼんやりとした愛着、あるいは知らない土地に移ることへの抵抗感、そんな一言二言で表現しきれるものではないだろう。
人生のほとんどを一つの土地で過ごしてきた人たちの、その地への幾重にも絡みついた思いは、たまたま訪れた旅の人間との立ち話程度では見えてくるものでない。
ご主人の「ここの暮らしはいい」と大らかに笑う顔と、この集落の現在置かれた環境のギャップに戸惑いを覚えながらも、その笑顔に至るまでの積み重ねをかみしめるように想像する。
 
 
少し驚いたのはこの最奥の集落でお祭りを今も行っているということ。
息子さんも含めた一家族でやっているようなものだそうで、お供えの料理をつくって神事を行うのだという。
前日に木頭北川の集落総出の秋祭りを見てきたばかりだ。
人口減高齢化で以前と同じ形でできない部分も出てきながらも、集落で100人を超える北川では何とか祭りを維持できている。
けれどよそでは祭りをやめてしまったり他の集落と合同でという形になった話も聞いていた。
高齢者ばかりになった集落で祭りをはじめとした年中行事が形を失うことは致し方ないこととも思っていた。
それがこの3世帯のみとなった集落で行われているとは。
むらの形が大きく変わっても受け継がれてきたものを守ろうとする姿勢に大きな敬意を抱いてしまう。
中流域の無住となった集落でも、「直接は聞かんけど、幟が立っとるの見たから、戻ってきてやりよるんやろな」と、祭りだけは継続されている様子とのこと。
旧村域人口が1000人を割り込むくらい人が減った木頭でも未だ5集落で祭りが行われていると聞いて驚いたが、代々受け継がれてきたものを大切にしたいという思いの強さには感銘を受ける。
ここの祭りは翌週らしい。
一瞬来ようかと思ったけど、まあさすがにいきなりなので、来年?もし何かできることあればお手伝いでもできればなあ。
 
ずっと話を聞きたいくらいだったが、突然の訪問で余り長い時間頂くのも申し訳ない。
また来ますという前に良かったらまた来なさいと言われたのが嬉しかった。
 

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高知伊尾木川~徳島那賀川 その2

静かな山村と清流の光景を求めて選んだ伊尾木川の旅だったが、来てみるとそこは下流の集落から30キロ無住の集落が続く廃村地帯だった。
かつての中心集落であった場所で元住人の方に話を聞いて、地図には集落名が点在するこの中流域に常住する人は一人もいなくなってしまったことを改めて確認し、ショックを受けたのだが、この先最上流部には3戸だけ常住する集落があるという。
そこでの暮らしはどういうものなのだろうということが気になって先に進むことにした。
 
事前に地形図で確認した時の印象では中流域は川の流れもゆるやかで、見通しの良い村落風景を想像していたけれど、実際に来てみると斜面からの樹木が道路に影をつくって延々と森の中を進むようだった。
しかし後で地図を見て確認したら最初の印象はそれほど間違っていた訳ではない。
地図の測量の時から時間が経って、今はその頃あった建物が取り壊されて跡地が植林されたり草に埋もれて、人がいた時の光景を隠してしまっていたのだ。
集落であった場所に来て、よくよく目を凝らして見ると失われたものが見えてくる。
例えば20年ばかり前だと全然違った景色だったのだろう。
人が住まなくなった土地が森に還ってゆくのは存外に早いのだと思い知らされた。
 
そんな鬱蒼とした森の中をずっと進んでいたので、対岸に水田と比較的新しい家を見た時には少し明るい光が差し込んだ気になった。
この川を遡る行程で「対岸」に渡れるところはいくつかあったが、どこも恐らく人が住まなくなって長い時間が経った土地ばかりのようで木造の吊り橋がかかっているだけのところが多かった。
けれどここではコンクリートのまだ新しそうな橋があって、人の手の入っていそうな家屋もある。
と言っても3戸ほどの小さな集落なのだけど、この流域では「開けた」場所のように見えてしまう。

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車も無くこの家の持ち主は不在のようだったが、田植えの準備をしているようで周りに野菜の育つ畑もある。
下流に引っ越して畑だけ維持して通っている人は幾らかいると聞いていた。
あくまで常住はされていない「空き家」なのだろうけど、比較的最近まで住まわれていたのだろう。
そう何らか人の手がかけられている姿を見るだけで少しほっとする。

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しかしここを過ぎると本格的に山の奥に分け入ってゆくことになる。
道幅は狭く上り坂が増えてきて、路面に落ちる小石や木の枝も多くなってきた。
渓流の眺めは素晴らしく、足を止めてゆっくり楽しみたい気になるのだけど、ここに至るまでに自転車はパンクを繰り返して予定より相当時間が押してしまっていた。
昼過ぎに峠の予定で、徳島県側の木頭に下りたら何か食事できるかと思っていたのに、距離にしてまだ半分少し過ぎたところ、峠の登りを考えたら到底半分にも達していないのに午後になってしまった。

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なので先を急ぐ。
この辺りからも最上流部に至るまでに集落は無い訳ではなく、川筋から離れた山の上の方に地図上には地名が残っていたと思うが、恐らくそれらは人が住まなくなって久しい土地だろう。
探してもなかなか痕跡をみつけることは難しいとは思っていたが、急ぎ足で通り過ぎてゆく中では入口さえ見つけることはできなかった。
 
人気のない深山の景色の中を相当長い時間かけて上りつめ、片斜面の険しい地形にようやく現れた建物は公民館だった。
ということは、ここが上流の集落の中心地なのだと思われるが、周囲には明らかな廃屋しか見られない。
斜面の上の集落に至る林道の分岐で、かつてはここに商店などもあったのかもしれないが、自転車のスピードでなければそんな想像もすること無く通り過ぎたかもしれない。
 
人の生活を感じられる場所はさらに1キロほど進んだ後にようやく見つけることができた。
のだが。
人に出会う前に唐突に立ちふさがったのは10頭を越える犬たち。
一斉にこちらに向けて怒号を浴びせかけてくる。
何が起こったのかよくわからないまま、脇道の上にある民家に逃げ込むとそこまでは追ってこなかったので少し気を落ち着かせた。
ああ驚いた。
番犬というには多すぎるから、犬の繁殖業でもしているのだろうか?人が入ってこない土地だから気兼ねなくできるのからか?
住民の方が在宅されていた聞いてみよう。
そう思い声をかけてみたが返事はない。
そりゃ、あれだけ犬が吠え立てて、誰かいるのなら何事かと出てくるのではないか。
畑に作物が育てられていて、作業台に道具が置いてあるので、住まわれているか、少なくとも頻繁に通われてはいることがわかる。
中流域から人がいなくなってもこの上流域に暮らしを営まれている、その話を伺いたかったが仕方ない。
 
家の入口に、娘さんのだろうかお孫さんのだろうか?制服を着たカカシがいた。
限界集落の女子高生、あり得ない組み合わせにここのご主人のユーモアを感じる。
人には会えなかったが彼女に別れを告げて先へ進む。

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再び森の中を1キロ少々進んで、ついに最奥の集落に辿り着いた。
やはり平地はほぼないけれど、斜面に立つ家の周りの畑などが管理されているだけで少し解放感がある。
これが人の生活のある光景だなと思う。
ここまでで森ばかりだと思って通り過ぎて来た場所でも、かつてはこんな光景を至るところで見られたのかもしれない。
 
ここでは谷川を利用して斜面に段々の池を設けていて、見たところ養魚場を営まれているようだった。
この仕事をするために街から遠く離れたこの地に住まわれているのか、それともここに住むためにここで仕事をつくりだしたのか?
話を聞きたかったがこちらも不在の様子。

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斜面をもう少し上がると植木の手入れされた立派な古民家があったのでこちらにも声をかけてみた。
するとこちらには80代後半というお婆さんがご在宅で、お話を伺うことができた。
今はお婆さん一人暮らし。
定期的に麓の街から息子さんが来てくれて買い物などは頼んでいるのだそう。
やはりこの集落は3戸だけ。
隣の養魚場の家は60歳前後のご夫婦で「まだ若いから元気」だと言う。
確かにここまで来ると60代で「若い」と言われて全く違和感なくなっている。
少し離れた下の家にはお爺さんが1人。
やっぱりこの上流部、というか、下流の大井集落から先の30キロくらいの間で常住されているのはこの3戸4人だけのようだ。
かつては山の仕事があったけれど、一軒、一軒とこの土地を離れていったのだという。
野暮だと思いつつどうしても聞きたくなってしまう「不便じゃないですか?」
それには「ここで不自由ない。ずっと住んできたところを離れたくない」と返ってくる。
幸いにも大きい病気もしていないそうで、確かに緊急時に医療施設が遠いのは不安だけれど、体調に不安がないなら息子さんからの生活必需品の差し入れがあれば、ずっと暮らしてきた環境だけに不自由を感じないのかもしれない。
周りに畑があって、季節の野菜は手に入る。
「近くに店や病院が無いから不便」などというのは現代の感覚で、彼女の若い頃は生活に必要な物は周りで揃えるのが当たり前だったのかと思う。
必要な物は身の回りにある、足りないものだけ届けてもらえば十分。
「なぜ未だここに残っている?」という問い自体的外れなのかも知れない。
以前の暮らしの延長であればそれは特別なことではないのだろう。

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ここまで来る途中の、人が住まなくなった集落を見てゆくなかで、この流域全体がもう枯れつつあり精気を失った樹木なのだと思った。
ほとんどの葉が枯れ落ちて、末端の梢にわずかに緑の葉が残っているだけのイメージ。
裸の枝が虚しく空に広がる中に一本の枝にだけ青く葉が光っていたなら「なぜこの一本だけ?」と不思議に思うのかもしれないけれど、全体が緑の葉を茂らせていた頃であれば特に気を引くこともないただ一本の枝だった筈だ。
もうこの樹は以前と同じ形で命を吹き返すことはないのかもしれないけれど、一本の枝についた葉は何ら特別な存在でもなく、ただ与えられた生をその場で全うしようとしている。
 
元々は大家族が住まわれていたと見える大きな古民家はお婆さんの一人暮らしでも綺麗に整えられているように見えた。
庭を飾る植木も手入れが行き届いて、畑の野菜も元気に育っている。
「高齢のお婆さん一人で大変だろうなあ」と最初思ったのだけれど、話を聞くうちにそれは変わらぬ日常の継続であっただけなのだと知らされた。
 
この世の果てのように思っていた土地も、来てみれば昔からの小さな日常が残るだけだった。
変わったのは周りだけだったと言えるのかもしれない。

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そんな思いを抱いて最後の集落を離れ、峠への急坂を登り詰める。
一行であっさり書くほど楽ではなかったのだが、話の流れ的にその辺はあえて省略。
別に誰かに労ってほしいとかそんな思いは全くないのであえて省略。
普段長距離走ったりしないただのオッサンが慣れない山道50キロ以上走った上に1000m超えの峠道すげーしんどい思いで登り切ってもそれ誰も見てなくて何も報われないから後で書いてセオさんスゴイと言われたいとか意識の隅にすらないのであえて省略。
 
ふう。
標高差400mを駆け上がるとこれまで歩んできたこの谷が一望できた。
直下に先ほど訪れた集落の家々が見えるが、そこから視界に入る中流域までの広い範囲に他に人が住んでいない。
改めて見渡すと本当に深い山だと思い、数十年前にはこの視界に入る山々の至る所に人の暮らしがあったことは驚きを覚えるが、それも現代の感覚に捉われ過ぎているということなのだろう。

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徳島側へ越えると人の住む地まで相当長い距離を走らなければならない。
下りは楽に飛ばせるかと思ったら、またパンクしたり、未舗装路が現れて慎重に進まなければならなくなったりで、遠い道のりとなってしまった。
そんな果てにようやく国道に出て辿り着いた木頭北川集落は川の両岸に家々や畑が広がっているのが眩しいくらいに思え、久々に出会えた人の暮らしの場所としてさながら桃源郷のように感じたのだった。
この土地の人たちの話も聞いてみたいな、と思ったけどもう夕方の時間で先を急がなければならなかったのが心残りだった。
 
まさかその後この地に通いつめることになるとは。
なんだけど、やっぱり思い返してみたらこの時木頭に一目惚れしてたんだなあ。
また来たい、もっとこの土地のことを知りたい、と色々調べているうちに山村留学のことに行き当たってそこから縁ができたのだった。
 

高知伊尾木川~徳島那賀川 その1

2018年5月21日
 
山深い土地に以前から興味があって、大学を休学して長い旅に出た時も九州や北海道や東北の山村を巡っていた。
もう20年以上前になるけれど、その当時から「人が減ってゆく、若い人がいない、年寄ばかりになってゆく」という話はあちこちで聞いた。
そりゃ不便だし仕事もないから仕方ないよな、と思いつつ、そうは言っても一度出た人がある程度の年齢で戻ってきて家業を継いでいたり、少ないながらも公務員や林業や土木関係の仕事は僻地にもあったので、何だかんだ言いながら人が少なくなっても集落の機能は維持されてゆくのだろうとぼんやり思っていた。
 
その後東京に拠点を移してからは音楽に重心を置くようになって、たまに旅に出ることはあれど日常の中で山村の暮らしに目を向けるような機会は少なくなっていた。
それが関西に戻ってきた9年前から、田舎が近くなったこともあり山を訪れる機会も増えて再び関心を取り戻してくるようになる。
そんな中で見えてきたのは、15年ほどのブランクの間に僻地の様子がさらに変わっていたことだった。
旅の目から見える範囲では、かつては小さい集落にもあった個人商店が見られなくなったり、そこそこ大きい集落でも学校が廃校になっていたり。
だけどそういうあって当然と思っていたものも無くなっているなら、地域社会の中でもっと多くのものが失われてきているのではないかと想像でき、山村で今何が起こっているのかきちんと知っておかないという思いを抱き始めていた。
 
結局のところ、今は那賀町の木頭という土地と縁ができて、今昔の山の暮らしの話を知る機会を得たのだけど、その前の話を一度書いておきたかった。
それは予備知識あまり持たぬまま訪れた旅先で山村の集落社会の衝撃的な現状を目の当たりにした経験で、ここを起点に自分の気持ちがぐっと四国の山に引き寄せられ今に至っているからだ。
 
四国の山はその険しさに都市圏からの距離の遠さもあって、容易に人の入り込むことのできない「秘境」の印象があり以前から気になる土地ではあった。
高校生の時に自転車で那賀川を遡っているし、新婚旅行も剣山スーパー林道だった。
拠点を関西に移してからは、少し近くなったので家族旅行など何かと格好をつけて徳島や高知の山奥に出かける機会を作り、少しずつ頭の中の地図の空白を埋めつつ興味を増していった。
 
次はどこに行こうかと国土地理院の地形図サイトを、まあこれしょっちゅう見ているのだけど、その日も那賀川上流の木頭にはまだ行ったことないなあと眺めていて、その最奥部に国道から南に外れた林道が高知側に繋がっているのを見つけた。
人里を離れて深い山の中へ細道が延々10キロ以上伸びていて、1000mを超える峠の向こうは高知県、そちら側も同様険しい山中なのに峠の直下に集落の名前があるのを見て「こんな山奥」に人が住んでいるのか?と驚いたのがはじまりだった。
ある程度商店や医療機関などある安芸市街まで50キロほど、そこまでほぼ車一台分くらいの幅の道路しかなく両側に山の迫った谷筋にぽつりぽつりと小集落が点在するだけのこの伊尾木川沿いの土地に一気に興味を惹かれた。
多く人の手の入っていない清流が長距離に渡って続く光景は絶景だろうし、その静かな土地の暮らしはどんな姿なのだろう?
これは訪れてみたい!できれば自転車で!と思うようになったのだった。
 
「自転車で」というのは本気でその土地を知りたい時に有用な移動手段で、車や鉄道バスなど使うとどうしても「通り過ぎる」だけの区間ができてしまうのだけど、自転車のスピードだとその地域を切れ目なく知ることができる。
気になった時に気軽に止まることができるし、何といっても「壁」が無いのが良い。
誰かに会った時に気軽に話を聞けるし、向こうからしても珍しい存在だろうから面白がられる。
実はそれ言うと究極は「歩き」で、それもやる時はあるのだけど、いかんせん遅過ぎるので今回のように山の中を100キロくらい進む行程では難しい。
自転車というのはなかなか絶妙な移動手段なのだ。
酒も飲めるし、てのは言っちゃいかんらしいから言わんけど。
 
 
気候の安定する梅雨入り前の5月後半、2泊3日で旅程を組んだ。
初日は土佐山田まで列車で移動して、行きたかった店や酒蔵を巡って海沿いで宿泊。
2日目に伊尾木川を遡って那賀町木沢の宿まで100キロ少々移動する計画で、朝の7時に河口からスタート。
 

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河口付近から
2級河川の伊尾木川はそれなりの川幅があるのだけど、河口からほんの数キロも行けば平野の光景は終わり、山の中を縫うように蛇行する典型的な山地河川となる。
広い川幅に澄んだ水が対岸の緑を映している、期待していた清流の姿に30分走らないうちに出会えてしまった。
 
河口から6キロほどに奈比賀(なびか)という集落があるが、ここから先が伊尾木川の源流までを含む旧東川村の村域になるらしい。
昭和30年前後の「昭和の大合併」までの自治体だけど、地域社会の中では現在でもこの単位は一つのまとまりとして生きていることが多い。
安芸市の中でも人口の集まる海沿いの平野と区別される、山間地域の「東川」はここから始まる、というところで両側に迫る山々のつくる影はより濃くなり、道も斜度を増して川を見下ろすようになってくる。
 

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河口から10キロ少々で旧東川村の中心であった入河内(にゅうがうち)に着く。
安芸市の海側にある有光酒造を以前訪れた時に、ここで栽培された酒米を使って醸造した「安芸虎 入河内」という酒を飲ませてもらい、この地名は知っていた。
 
話はそれるがこの酒は美味い。
酒蔵で試飲させてもらって、すごく良かったので駅まで歩きなのに一升瓶で買ってしまった。
旅荷物に加えて他にも四合瓶3本と300mlの小瓶もいくつかあった筈で、その先の旅は苦行のようになった訳だが、まあ、それも良しと思えるほど美味い酒だったてことだ。
酒米高知県独自の「吟の夢」、これは山田錦ヒノヒカリの交配によるもので、酒造米としての性質と暑さにも強い性質を併せもった優良な品種、この米の酒は大体美味い気がするな・・・
 
えっと、キリがないのでそろそろ入河内に戻ろう。
「安芸虎 入河内」は精米歩合50%の純米吟醸酒だから・・・ってまた酒かい!
と思われるかもしれないが、玄米から50%まで磨くということは収穫した半分しか酒の仕込みに利用しないから大量の米が必要な訳だ。
酒米の栽培が大々的に行われ田んぼが広がっているのかと思ったら、川から少し離れた丘の上の集落で目立つのは茶畑と柚子畑で、お茶の加工工場も集落の中にあった。
さらにこの土地でしか育たないという固定種の入河内大根という品種も特産品として作っているらしく、水田も見られるけれど農業全体が盛んな土地なのかという印象を持った。
ただ、そうして産業があるように見える割に、一通り歩き回っても出会う人少なく集落全体の雰囲気はひっそりとしていた。
 

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入河内
高台に小学校があったので訪ねてみたが、この東川小学校は直前の4月から休校になったのだという。
休校と言っても最後の生徒は数人だったようだから再開の見込みは基本ないようにも思える。
上流の学校も廃校のようだからこれで旧東川の村域から学校は無くなってしまった。
昭和以前の旧村単位とは言え、一つの地域から小学校すら無くなってしまうなんて、この時点で自分の思っていたより過疎化は大きく進行していることが思い知れた。
農業が産業としてそれなりに機能しているように見えるこの場所でもこの状況なのだから、これより上流はもっと厳しいのではないか、そういう思いを抱えて先に進むこととなる。
 

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東川小学校
 
入河内を過ぎると再び川沿いにもどって、ある程度の耕地の広がる黒瀬・大井という集落が続く。
実は峠越えの食料にパン2つしか用意していなくて、ちょっと足りないかも知れないのでどこか店があれば寄りたかったのだけど、頼みの入河内にも簡易的な商店が一つ、そこも空いていなかったので期待薄ながら大井で店が見つからないかと集落を巡ってみた。
郵便局があるくらいだからそこそこ人がいる筈だと思ったのだけど、集落で出会えたのは80代くらいのおじいさん1人。
少し耳が遠いのか話していても要領を得ないところがあったが、この集落に店は無いこと、もう若い世代は出て行って一人もいない、ということだけはわかった。
念のために郵便局にも寄って聞いてみたが、やはり商店は一軒も無く当然の如くここより上流にも店はないようだった。
それだけでない。
「もうここから上流はほとんど人は住んどらんよ。一番奥の集落に4,5軒残ってるだけ」
え?
少し止まってしまった。
確か事前に地図で確認した時は規模は小さいながら数多くの集落がこの先川沿いに点在していた筈だ。
中には無住の集落もあるだろう、若い世代はほとんどいないのかな、高齢者以外はどんな仕事をして残っているのだろう、そんなことを誰かに会えたら聞こうと思っていたが、頭の中で想定していたこの地域の姿が全てひっくり返された。
この大井はまだほんの下流域、村域の入口のような場所だと思っていたのに、ここまででほぼ終わりなのだという。
じゃあこの先、地図に名前の集落はどうなっているのか?
 
ちょっと再確認しよう、と外に出て携帯の地図を見ようとしたら圏外だった。
入河内を出てしばらくしてから電波状況が悪いなと思っていたけど、見通しの良いところに出ても全く繋がらない。
今の日本、人の住んでいる土地なら問題なく電波が掴めるものだと思い込んでいた自分の見通しの甘さを思い知らされた。
紙の地図を用意するか、せめて地図のスクリーンショットでも撮っておくべきだった、便利な環境に慣れ過ぎて僻地に赴く際の心構えを忘れてしまっている。
 
聞いた通り、大井の集落を過ぎると道も斜面から覆いかぶさるような木々のトンネルを進むようで、人の生活の気配は全く見られなくなってしまった。
そんな中、川に吊り橋が架かっているのを見つけたので渡ってみたら、朽ちかけた廃屋と畑の跡を見つけることができた。
斜面の方に目をやると森の中に石積みの段々があって、以前はここに田畑や家屋があったことを教えてくれる。
離村するとなった時に杉の苗木を植えるのだと聞いたが、今やほぼ森に還っているというほど育っているので、もうかなりの時間が経っているのだろう。
ずっと人家の無い場所を通ってきたと思っていたけれど、もしかしたら森の中にこうした集落の跡が他にもあったのかもしれない。
 

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しばらくして伊尾木川ダムに到着。
それほど大きなダムではなくダム湖も小さいけれど、森林軌道の橋梁の跡が残っていて、山の緑とともに水面に映る姿が可愛らしい。
今は静かな山峡だけど、鉄道が敷設されるほど林業で栄えた時代があったことを思い出させてくれる。
燃料としての木炭に建材としての木材と、山は資源の宝庫だったのだ。
安い輸入材が入ってくるようになって林業は廃れ、こういうダムの建設など一時的に人が駆り出されることはあったものの、今はそのダムも土砂の堆積により役割が果たせているのかもわからない。
時代時代で山と人との関わりは移り変わってゆくが、この先の時代にはどんな姿があり得るのだろう?
 

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ダムの前後は山の斜面が両側に迫ってすでに深山の趣。
しばらく人の暮らしの痕跡は見つけられない代わりに(後で確認したら斜面の上には集落跡があった)渓谷美を堪能して、再び人家に巡り合ったのは小中学校前のバス停のある場所だった。
実際ここにいる時は地図が見られなかったから確認できなかったのだが、記憶では学校の周りにある程度人家があるのでなかったか?
森に埋もれそうな廃屋を幾つか見ただけで「集落」に着いた気がしなかった。
本当に人の生活の場では無くなってしまっているのか、しかもこの様子なら人のいない土地になって相当の年月が経っている。
 
学校跡は坂を下って対岸に渡ったところにあるようだったけど、この前に自転車のタイヤがパンクして修理して時間が押していたので学校は遠くから見下ろすだけで進む。
鉄筋の校舎が残っている。
新築した時にはここに子どもが通わなくなる日のことは想像されていたのだろうか。
 
森の中を進むと少し先にようやく開けた土地が見えてきた。
道路から見下ろす斜面と川べりの平地に柚子が植えられている。
山の斜面側にポストがあり名前が書かれていた。
家屋は少し上ったところにあるようでそこからは見えなかったが、大井を過ぎてから「人の居住を示すもの」を見つけたのはこれが初めてだった。
常住はしていなくても柚子畑の管理のために通っているのだろうか?
ポストがあるということは電気の契約などあるのかもしれない。
その並びに他の家屋もあり、雨戸が閉ざされていず中に洋服が吊られているのなどが見えた。
やはり時々来られて畑の管理などをされているのかもしれないが、生活感などは見られない。
人の暮らしを偲ばせるものは辛うじてその程度だった。

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その先も森に埋もれそうな細い道が続いている。
いつになったら「集落」を思わせる光景に出会えるのだろう?地図で見た記憶では少しばかり大きな集落がいくつかあった筈なのに。
 
なので唐突に、という印象があり郵便局が現れた時には驚いた。
そこはやっぱりそれまでと変わらない森の中だったのだ、少なくとも自分の印象では。
郵便局があるところが中流域以降の中心集落、と思っていたのだが、その周辺は自分が当初想像していた光景と全く違ってなかなかその差を埋めることができない。
近くに公民館の建物があり、林業関係の看板のある家屋もあり、周囲の藪をよく見ると石積みがあって畑か家屋の敷地であったことが見て取れる。
頭の中で、今は生い茂っている草木を取っ払ってそこに家屋や耕地があることを想像することで、ようやく「集落」であった頃の姿を思い描くことができる。
けれどじっくり見渡してその変換作業をしない限り、例えば車で通り過ぎた場合だったら「あ、ちょっと家あったな」くらいの印象ではなかろうか。
恐らく商店もあり、ある程度人の集まる場所だったのだろうけど、今の光景からそれを想像することは難しい。

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一台、車が停まっていて作業されている方がいたので少し話を聞くことができた。
60歳だというその男性はこの集落の最後の住人だったという。
林業が栄えた時代は人が多くいたが需要が少なくなって一気に廃れ、仕事が無いから人が離れていったという。
今は下流安芸市の方に居を移して時々こうして家を見に来るのだそう。
はっきり住人の方に聞くのはショックだったが、やはりこの集落だけでなく、上流部の数戸のみを残して、中流域の30キロに渡って点在していた集落全ては無住の地となっているとのことだった。
 
常識的に考えて、仕事が無ければ学校を卒業した若者は集落に戻ってこない。
何とか山で仕事を見つけるか麓の街まで通勤するかという可能性もあるけれど、家族ができたら今度は教育の問題がある。
小学校まで1時間以上かかるような環境で周りに友達もいない、そして高校以上を考えるとさらに遠くなる。
そうして現役世代は山を離れざるを得なくなり、残るのは高齢者ばかり。
支え合えるだけの絶対数がいるうちはまだ機能するのだろうけど、買い物の問題、医療福祉の問題を考えると、市街地から遠く離れた土地は徐々に人が減ってゆく中で限界を迎える時は早くなるということかもしれない。
 
山の集落が廃村となるのが今に始まった話でないことは知っている。
車の通れるような道も無い、急傾斜を上った先にある小集落など、道路の敷設から電気電話などインフラ整備の問題もあり、行政主導で集団離村を促したりするケースは高度成長期頃からあった話で、豪雪地域の山村集落などで多いと聞く。
けれど今見ているのは孤立した小集落ではなく、一つの地域社会を形成していた村落全体での話になっていて、この単位で完全に無住となるほどの事態が起こっているなんて想像もしていなかった。
 
過疎の問題はゆっくりゆっくりと進行していて、それぞれの単位では関わっている人の数がごく少数ということもあって大きなニュースにはなりにくいということもあるだろうか。
とは言え、自分がしばらく目を向けられていなかった間に取り返しのつかないところまで来ていたこと、それに気づかずにいられなかったことに少なからぬショックを受けた
「ちょっとどうなっているんだ」今起こっていること、ここに至るまでにどんな過程があったのか、知っておくべきことが山ほどあるのではないかと思い、それが今に至るまで継続している。
 
ということで、これまで見知ったこと、そこから考えたことなども、できる限りここで書いてゆきたい。
音楽や酒のことも、書きたいこと色々あるけれど、ここしばらくで山に行きまくって見たことがまだ伝えられていないので山村の話が多くなると思うのだという宣言を一つしておいてひとまず区切り。
今回の旅はまだ続くけど、一旦ここで止めて次回に。

瓢箪ござ(Lee Dongheeセッション)

2019年8月28日(水)

Lee Donghee/李東熙 (doublebass)

古川友紀(dance)

ヤンマー(guitar)

瀬尾亮(voice,sax,他)

 

鳥取で知り合った韓国出身ベーシストのドンヒさん企画で同じく鳥取で一緒した大阪のダンサー古川さんと、ギターのヤンマーさんは初対面だったのだけれど10月に音遊びの会で参加する野外演劇「日輪の翼」の音楽監督さん、という縁のあるセッション。

前半はドンヒ+瀬尾デュオと古川+ヤンマーデュオをそれぞれ。

後半に4人でのセッション。

お見送り

次女の山村留学、2学期の開始は8月26日ということで、前日木頭に送りに行く。

数えてみれば自分が木頭に行くのはこの4月から10回目だ。

その前に12月と2月にも来ているし。

いつもの那賀川沿い国道195号もさすがに飽きてきたので、今回は北の神山町から土須峠を越えて木沢村経由で。

とにかく峠がハードなので余り選択肢に入らないけれど、距離だけ見たらこっちの方が短いくらいで時間も大きくは変わらない。

これまで何度か越えている土須峠、四国の山の険しさを知るにはちょうどいい。

木頭も木沢も物部も祖谷も、こんな山々に囲まれているんだなということを実感。

 

そしてもうちょっと山の厳しさを知るためにも、スーパー林道入ってファガスの森までダートを走って昼食。

 標高1300mはもう秋の空気。

夏休み最後の日曜ということで淡路島の辺りでは車が多い気がしたけど、こんな山の中は至って静かなもの。

涼しくて景色が良くてすごくいいところだけど、簡単には来られないから人が少ない。

四国の山の中はそんな場所ばっかりだ。

 

土須峠から木沢に下りる国道沿いの渓谷も大好きな景色。

木沢と木頭は同じ川に合流するのだけど、険しさは木沢の方が一段上で、受ける印象はかなり違う。

急傾斜を豊富な水量で流れ落ちる川はどこに行っても渓谷美と言える景色をつくり上げてくれて、見ていて飽きない。

人の暮らしも山の斜面の上に家々が点在する傾斜地集落の光景で、これは四国の他の場所ではあるけれど、案外木頭では見られない。

木沢の方でもまたゆっくりしたいなあと思う。

 

15時頃に木頭北川に到着。

まったくここに来ると、遠路はるばる来ているのに他愛もない話してのんびりくつろいで帰るだけ。

まあしばらくのお別れだ。

また来るけどな。

別れって何だろか、一月経たずにまた会う娘には別れを意識するのに、「じゃあまた」のまま一生会わない人はあまたいる。

んなもんっちゃんなもんなんだけどね。

 

 

木頭の休日

自然に対する畏れを失ってはいけない、などなどなどと。

現代において自然に対してナメた態度を公の場でとっているとどっかから叱られたりする訳である。

「台風が近づいています」という報道があれば外出の予定を中止して家の中でじっとしたいるのが賢明だとされている。

 

そこにもってきて我が家はこの8月14日15日に高知徳島の方に遊びに行く計画を立てていた。

折しも14日夜から15日にかけて超大型の台風が四国に上陸しそうだという報道。

マメに予報をチェックしつつも、「んー、まあ何とかなるんちゃうん?」と予定をキャンセルすること無く、まあ実際そんなに深く考えることなく。

 台風言うても中心から離れたら暴風雨というほどでもなく、まあ雨はそれなりに降るんだろうけど、建物の中でグダグダしてたらええんちゃうん、みたいな。

 

実際、とにかく行ってしまえっ、という方向性でいたのだけど、直前になっても台風の進路は変わらず接近の日もちょうど14日から15日にかけてのまま。

こりゃ行っても雨見るだけで終わりちゃうん?というのと、もしかしたら土砂崩れとか洪水とかホンマモンの災害に見舞われるかも?と、それなりに良識ある判断も少し加わって結局行くのやめたのだった。

 

結果どうだったか。

この台風10号は四国の西端から広島に上陸したのだが、その頃には勢力も落ち着いていて大きな被害を出すことなく日本海に抜けて、明石近辺での印象は「まあ思ったほどちゃうかったね」程度。

でも木頭は違った。

台風上陸前の14日から徳島県高知県の一部の山間部だけ記録的な豪雨に見舞われ、24時間雨量500㎜と。

これは去年の西日本豪雨の時に大規模浸水した岡山の数字の倍くらいというから、物凄い雨だった筈。

大雨に慣れている木頭の人たちが口々に「エライ雨だった」と言っていたくらいだから、もし自分らそこにいたら恐怖だったのではなかろうか。

行っていたら後悔していたに違いない。

珍しく正しい判断ができた訳である、大人になるということはこういうことか。

 

さて結局、台風翌日も土砂災害など危険かなと行くのを控えて、3日経った18日に日帰りで遊びに行くことに。

台風の時は国道も浸水したというニュースを見たけど、この日は道路状況に問題はなし。

車窓から見る那賀川が常に茶色い濁流で、上流に行けば少しは落ち着くかと思ったけれど、木頭に着いて橋を渡った時も知っている光景と全然違うと山村留学で木頭の子になっている次女が言うくらい。

 支流だったら水量少ないから水も落ち着いているかもと言われたけれど、いやあ、支流の上流も色は茶色ではないけれど足を浸けるだけで押し流されそうな勢い。

おとなしく川沿いのキャンプ場で食事だけした。

 

休日に山にお出かけ、と言うと何かしらレジャー的なものが必要のように思われるけど、結局今回は同級生の女の子を誘って一緒に山村留学センターの寮に行ってダラダラ過ごしただけ。

管理人さん家族の1歳の娘さんと遊ぶことを心から楽しみにしていたようで、その時間がたっぷり取れたらそれで満足という様子だった。

川で泳いだり山に登ったり絶景を眺めて写真撮ったり、そういうトピックがなくても十分。

ゆっくりできたらそれはそれで良かったのだろうけど、台風のおかげで時間が無くなって、結果子どもたちが何を一番大切にしているのかということがよく見えたということかな。

 

中国山地の分水嶺を歩く

青春18切符この夏2枚目。

日帰りで夕方に岡山総社でセッションに参加。

それまでの時間にどっか行ったろうとなると案外選択肢が無くて悩む。

というのは、それで考えつくルートはあらかた行ってしまっているから。

智頭、鳥取、津山、新見、東城、児島、高松、琴平、辺境を目指すにしろ地方都市をぶらぶら歩くにしろ気になる土地はあらかた行き尽くしている。

西に山陽本線広島に向かう方向がすっぽり空いているのだけど、まあ馴染みのある土地だし、また別の機会を設けるつもりだし。

 

結構な熟考の末、去年山陰に行ったときに伯備線の岡山鳥取の県境辺りの風景が好印象だったことを思い出し、そういえば最近通っている木頭北川も徳島と高知の県境の集落。

馴染みになりつつある四国山地の峠の村の光景と、中国山地のそれとを見比べると面白いかもと、鳥取に入ってすぐの日南町上石見を目指すことにした。

 

最短で行くなら倉敷から真っ直ぐ伯備線で北上するところだけど、帰りもそこ通るし、津山と新見の間の農村風景がまたいいよね、ってことで姫新線経由で。

車内満席に近いのに驚くけど、考えてみればお盆休みの始まりだから、旅行客も帰省客も多いのか。

うっかりであった、とか少し思うけど、どうせ目的地に近づくにつれて人は減ってゆくだろう。

 

むしろ悔いる点はお盆で日曜日なので酒屋が空いていないところ。

津山で30分の乗り継ぎで街に出ても、目を付けた酒屋は閉店。

街一番のデパートに行けば何かあろう、と天満屋に行けば10時の開店まで少し足りず。

仕方なしと駄目元で大きめのスーパーに行ったら、うーん、それなりの品揃え。

勝山の辻本店の御前酒9という菩提酛の酒と、美作の酒ではないけど赤磐の櫻室町吟醸生を購入。

駅前の物産館よりよっぽど良いのがちょっと複雑。

 

新見への列車は一両ロングシートがやはりほぼ埋まっていて呑める雰囲気でなし。

仕方なしと車窓を眺めるだけだけど、やっぱりこの区間はいいよなあ、と思う。

峠に近づいても山が険しくならないのは中国山地の特徴。

山に囲まれていても平地がそれなりにあってどこに行っても水田が視界に入る。

その中に点在する農家は威厳を持った黒瓦の建物が多く、母屋と離れに蔵もあるような立派な屋敷が多いのに目をひかれた。

やっぱり平地があると豊かなんだなと思う。

四国の険しい山地の暮らしを見た後では、土地に恵まれた中国山地に平穏さを感じる。

暮らしやすそうだなと思う反面、厳しい自然とギリギリのところで折り合いをつけながらの暮らしから生まれる、生きるための知恵のようなものは険しい土地の方が豊富なのかもしれないとも思ったり。

以前だったらのどかの農村風景だな、としか感じなかった車窓からも、色々見えてくるようになって土地土地の暮らし方の違いを考える。

 

新見から一区間特急に乗って鳥取県の生山で下車。

街道の宿場町なのか、ごくごく短い距離なのだけど風格のある商店街。

やっぱり人はそんなにいないのだけど、今の時代に町の本屋さんが営業していたりで、ちょっと嬉しくなる。

ここから峠の集落、上石見までは8キロだけど、1キロ離れた道の駅まで往復してしまったので結局10キロ、2時間少々で歩かねばならないのはちょっとした苦行となってしまった。

移動に徹するなら時速6キロくらいいけるけど、のんびり楽しみたいなら時速4キロ以下。

結局2時間で10キロは微妙。

気になったところでは立ち止まるし人と話す機会もほしい、となると必然急ぎ足になってしまいのんびり要素は遠ざかってしまう。

 

標高400mは高原というほどではないけれど、多少は涼しかろうと思っていたのに、道路の温度表示は35℃と。

熱中症で倒れる人のニュース見て、いや倒れる前に何とかできるでしょ、と思てた自分。

いやあ、行けそうな気がするけど行けないかもしれないと想像することも大切、とか思いながら、まあ歩いてしまうんだな結局。

水分がばがば取りながら、風情を感じる余裕もない早足で歩き通して汽車には10分の余裕を残して間に合った。

アカン道の駅行かずにもうちょっとのんびり歩きたかったなあ、とも思う。

何かいい酒あるかなあ、とかつい遠回りしてしまうんよなあ、そんでいい酒無かったし。

 

生山から上石見に至る道、常にゆるい上りなのだけど、急なところはなく、周りに田園風景を眺めながら気が付いたら高度を稼いでいるという印象。

峠が近付いても、先を阻まれるような景色ではなく丘を越えたら瀬戸内側、というのどかな分水嶺だった。

雪の積もる土地なのだろうけど、夏は暮らしやすそうな土地で、やっぱり敷地の大きな建物が多く見られる。

小中学校は見当たらないのに峠の近くに保育園だけあったのが面白いところ。

後で調べたら子どもの数が16人と、想像以上の多さだった。

やはり暮らしやすい土地だから若い世代も多いのかな、など、時間があれば人に聞きたかったな、という心残り。