はりまノマド

西明石「地酒と辺境 はりまのまど」瀬尾亮ブログ

高知伊尾木川~徳島那賀川 その1

2018年5月21日
 
山深い土地に以前から興味があって、大学を休学して長い旅に出た時も九州や北海道や東北の山村を巡っていた。
もう20年以上前になるけれど、その当時から「人が減ってゆく、若い人がいない、年寄ばかりになってゆく」という話はあちこちで聞いた。
そりゃ不便だし仕事もないから仕方ないよな、と思いつつ、そうは言っても一度出た人がある程度の年齢で戻ってきて家業を継いでいたり、少ないながらも公務員や林業や土木関係の仕事は僻地にもあったので、何だかんだ言いながら人が少なくなっても集落の機能は維持されてゆくのだろうとぼんやり思っていた。
 
その後東京に拠点を移してからは音楽に重心を置くようになって、たまに旅に出ることはあれど日常の中で山村の暮らしに目を向けるような機会は少なくなっていた。
それが関西に戻ってきた9年前から、田舎が近くなったこともあり山を訪れる機会も増えて再び関心を取り戻してくるようになる。
そんな中で見えてきたのは、15年ほどのブランクの間に僻地の様子がさらに変わっていたことだった。
旅の目から見える範囲では、かつては小さい集落にもあった個人商店が見られなくなったり、そこそこ大きい集落でも学校が廃校になっていたり。
だけどそういうあって当然と思っていたものも無くなっているなら、地域社会の中でもっと多くのものが失われてきているのではないかと想像でき、山村で今何が起こっているのかきちんと知っておかないという思いを抱き始めていた。
 
結局のところ、今は那賀町の木頭という土地と縁ができて、今昔の山の暮らしの話を知る機会を得たのだけど、その前の話を一度書いておきたかった。
それは予備知識あまり持たぬまま訪れた旅先で山村の集落社会の衝撃的な現状を目の当たりにした経験で、ここを起点に自分の気持ちがぐっと四国の山に引き寄せられ今に至っているからだ。
 
四国の山はその険しさに都市圏からの距離の遠さもあって、容易に人の入り込むことのできない「秘境」の印象があり以前から気になる土地ではあった。
高校生の時に自転車で那賀川を遡っているし、新婚旅行も剣山スーパー林道だった。
拠点を関西に移してからは、少し近くなったので家族旅行など何かと格好をつけて徳島や高知の山奥に出かける機会を作り、少しずつ頭の中の地図の空白を埋めつつ興味を増していった。
 
次はどこに行こうかと国土地理院の地形図サイトを、まあこれしょっちゅう見ているのだけど、その日も那賀川上流の木頭にはまだ行ったことないなあと眺めていて、その最奥部に国道から南に外れた林道が高知側に繋がっているのを見つけた。
人里を離れて深い山の中へ細道が延々10キロ以上伸びていて、1000mを超える峠の向こうは高知県、そちら側も同様険しい山中なのに峠の直下に集落の名前があるのを見て「こんな山奥」に人が住んでいるのか?と驚いたのがはじまりだった。
ある程度商店や医療機関などある安芸市街まで50キロほど、そこまでほぼ車一台分くらいの幅の道路しかなく両側に山の迫った谷筋にぽつりぽつりと小集落が点在するだけのこの伊尾木川沿いの土地に一気に興味を惹かれた。
多く人の手の入っていない清流が長距離に渡って続く光景は絶景だろうし、その静かな土地の暮らしはどんな姿なのだろう?
これは訪れてみたい!できれば自転車で!と思うようになったのだった。
 
「自転車で」というのは本気でその土地を知りたい時に有用な移動手段で、車や鉄道バスなど使うとどうしても「通り過ぎる」だけの区間ができてしまうのだけど、自転車のスピードだとその地域を切れ目なく知ることができる。
気になった時に気軽に止まることができるし、何といっても「壁」が無いのが良い。
誰かに会った時に気軽に話を聞けるし、向こうからしても珍しい存在だろうから面白がられる。
実はそれ言うと究極は「歩き」で、それもやる時はあるのだけど、いかんせん遅過ぎるので今回のように山の中を100キロくらい進む行程では難しい。
自転車というのはなかなか絶妙な移動手段なのだ。
酒も飲めるし、てのは言っちゃいかんらしいから言わんけど。
 
 
気候の安定する梅雨入り前の5月後半、2泊3日で旅程を組んだ。
初日は土佐山田まで列車で移動して、行きたかった店や酒蔵を巡って海沿いで宿泊。
2日目に伊尾木川を遡って那賀町木沢の宿まで100キロ少々移動する計画で、朝の7時に河口からスタート。
 

f:id:seonious:20200120221043j:plain

河口付近から
2級河川の伊尾木川はそれなりの川幅があるのだけど、河口からほんの数キロも行けば平野の光景は終わり、山の中を縫うように蛇行する典型的な山地河川となる。
広い川幅に澄んだ水が対岸の緑を映している、期待していた清流の姿に30分走らないうちに出会えてしまった。
 
河口から6キロほどに奈比賀(なびか)という集落があるが、ここから先が伊尾木川の源流までを含む旧東川村の村域になるらしい。
昭和30年前後の「昭和の大合併」までの自治体だけど、地域社会の中では現在でもこの単位は一つのまとまりとして生きていることが多い。
安芸市の中でも人口の集まる海沿いの平野と区別される、山間地域の「東川」はここから始まる、というところで両側に迫る山々のつくる影はより濃くなり、道も斜度を増して川を見下ろすようになってくる。
 

f:id:seonious:20200120221142j:plain


 
河口から10キロ少々で旧東川村の中心であった入河内(にゅうがうち)に着く。
安芸市の海側にある有光酒造を以前訪れた時に、ここで栽培された酒米を使って醸造した「安芸虎 入河内」という酒を飲ませてもらい、この地名は知っていた。
 
話はそれるがこの酒は美味い。
酒蔵で試飲させてもらって、すごく良かったので駅まで歩きなのに一升瓶で買ってしまった。
旅荷物に加えて他にも四合瓶3本と300mlの小瓶もいくつかあった筈で、その先の旅は苦行のようになった訳だが、まあ、それも良しと思えるほど美味い酒だったてことだ。
酒米高知県独自の「吟の夢」、これは山田錦ヒノヒカリの交配によるもので、酒造米としての性質と暑さにも強い性質を併せもった優良な品種、この米の酒は大体美味い気がするな・・・
 
えっと、キリがないのでそろそろ入河内に戻ろう。
「安芸虎 入河内」は精米歩合50%の純米吟醸酒だから・・・ってまた酒かい!
と思われるかもしれないが、玄米から50%まで磨くということは収穫した半分しか酒の仕込みに利用しないから大量の米が必要な訳だ。
酒米の栽培が大々的に行われ田んぼが広がっているのかと思ったら、川から少し離れた丘の上の集落で目立つのは茶畑と柚子畑で、お茶の加工工場も集落の中にあった。
さらにこの土地でしか育たないという固定種の入河内大根という品種も特産品として作っているらしく、水田も見られるけれど農業全体が盛んな土地なのかという印象を持った。
ただ、そうして産業があるように見える割に、一通り歩き回っても出会う人少なく集落全体の雰囲気はひっそりとしていた。
 

f:id:seonious:20200120221324j:plain

入河内
高台に小学校があったので訪ねてみたが、この東川小学校は直前の4月から休校になったのだという。
休校と言っても最後の生徒は数人だったようだから再開の見込みは基本ないようにも思える。
上流の学校も廃校のようだからこれで旧東川の村域から学校は無くなってしまった。
昭和以前の旧村単位とは言え、一つの地域から小学校すら無くなってしまうなんて、この時点で自分の思っていたより過疎化は大きく進行していることが思い知れた。
農業が産業としてそれなりに機能しているように見えるこの場所でもこの状況なのだから、これより上流はもっと厳しいのではないか、そういう思いを抱えて先に進むこととなる。
 

f:id:seonious:20200120221228j:plain

東川小学校
 
入河内を過ぎると再び川沿いにもどって、ある程度の耕地の広がる黒瀬・大井という集落が続く。
実は峠越えの食料にパン2つしか用意していなくて、ちょっと足りないかも知れないのでどこか店があれば寄りたかったのだけど、頼みの入河内にも簡易的な商店が一つ、そこも空いていなかったので期待薄ながら大井で店が見つからないかと集落を巡ってみた。
郵便局があるくらいだからそこそこ人がいる筈だと思ったのだけど、集落で出会えたのは80代くらいのおじいさん1人。
少し耳が遠いのか話していても要領を得ないところがあったが、この集落に店は無いこと、もう若い世代は出て行って一人もいない、ということだけはわかった。
念のために郵便局にも寄って聞いてみたが、やはり商店は一軒も無く当然の如くここより上流にも店はないようだった。
それだけでない。
「もうここから上流はほとんど人は住んどらんよ。一番奥の集落に4,5軒残ってるだけ」
え?
少し止まってしまった。
確か事前に地図で確認した時は規模は小さいながら数多くの集落がこの先川沿いに点在していた筈だ。
中には無住の集落もあるだろう、若い世代はほとんどいないのかな、高齢者以外はどんな仕事をして残っているのだろう、そんなことを誰かに会えたら聞こうと思っていたが、頭の中で想定していたこの地域の姿が全てひっくり返された。
この大井はまだほんの下流域、村域の入口のような場所だと思っていたのに、ここまででほぼ終わりなのだという。
じゃあこの先、地図に名前の集落はどうなっているのか?
 
ちょっと再確認しよう、と外に出て携帯の地図を見ようとしたら圏外だった。
入河内を出てしばらくしてから電波状況が悪いなと思っていたけど、見通しの良いところに出ても全く繋がらない。
今の日本、人の住んでいる土地なら問題なく電波が掴めるものだと思い込んでいた自分の見通しの甘さを思い知らされた。
紙の地図を用意するか、せめて地図のスクリーンショットでも撮っておくべきだった、便利な環境に慣れ過ぎて僻地に赴く際の心構えを忘れてしまっている。
 
聞いた通り、大井の集落を過ぎると道も斜面から覆いかぶさるような木々のトンネルを進むようで、人の生活の気配は全く見られなくなってしまった。
そんな中、川に吊り橋が架かっているのを見つけたので渡ってみたら、朽ちかけた廃屋と畑の跡を見つけることができた。
斜面の方に目をやると森の中に石積みの段々があって、以前はここに田畑や家屋があったことを教えてくれる。
離村するとなった時に杉の苗木を植えるのだと聞いたが、今やほぼ森に還っているというほど育っているので、もうかなりの時間が経っているのだろう。
ずっと人家の無い場所を通ってきたと思っていたけれど、もしかしたら森の中にこうした集落の跡が他にもあったのかもしれない。
 

f:id:seonious:20200120221447j:plain

しばらくして伊尾木川ダムに到着。
それほど大きなダムではなくダム湖も小さいけれど、森林軌道の橋梁の跡が残っていて、山の緑とともに水面に映る姿が可愛らしい。
今は静かな山峡だけど、鉄道が敷設されるほど林業で栄えた時代があったことを思い出させてくれる。
燃料としての木炭に建材としての木材と、山は資源の宝庫だったのだ。
安い輸入材が入ってくるようになって林業は廃れ、こういうダムの建設など一時的に人が駆り出されることはあったものの、今はそのダムも土砂の堆積により役割が果たせているのかもわからない。
時代時代で山と人との関わりは移り変わってゆくが、この先の時代にはどんな姿があり得るのだろう?
 

f:id:seonious:20200120221417j:plain

ダムの前後は山の斜面が両側に迫ってすでに深山の趣。
しばらく人の暮らしの痕跡は見つけられない代わりに(後で確認したら斜面の上には集落跡があった)渓谷美を堪能して、再び人家に巡り合ったのは小中学校前のバス停のある場所だった。
実際ここにいる時は地図が見られなかったから確認できなかったのだが、記憶では学校の周りにある程度人家があるのでなかったか?
森に埋もれそうな廃屋を幾つか見ただけで「集落」に着いた気がしなかった。
本当に人の生活の場では無くなってしまっているのか、しかもこの様子なら人のいない土地になって相当の年月が経っている。
 
学校跡は坂を下って対岸に渡ったところにあるようだったけど、この前に自転車のタイヤがパンクして修理して時間が押していたので学校は遠くから見下ろすだけで進む。
鉄筋の校舎が残っている。
新築した時にはここに子どもが通わなくなる日のことは想像されていたのだろうか。
 
森の中を進むと少し先にようやく開けた土地が見えてきた。
道路から見下ろす斜面と川べりの平地に柚子が植えられている。
山の斜面側にポストがあり名前が書かれていた。
家屋は少し上ったところにあるようでそこからは見えなかったが、大井を過ぎてから「人の居住を示すもの」を見つけたのはこれが初めてだった。
常住はしていなくても柚子畑の管理のために通っているのだろうか?
ポストがあるということは電気の契約などあるのかもしれない。
その並びに他の家屋もあり、雨戸が閉ざされていず中に洋服が吊られているのなどが見えた。
やはり時々来られて畑の管理などをされているのかもしれないが、生活感などは見られない。
人の暮らしを偲ばせるものは辛うじてその程度だった。

f:id:seonious:20200120221540j:plain

 
その先も森に埋もれそうな細い道が続いている。
いつになったら「集落」を思わせる光景に出会えるのだろう?地図で見た記憶では少しばかり大きな集落がいくつかあった筈なのに。
 
なので唐突に、という印象があり郵便局が現れた時には驚いた。
そこはやっぱりそれまでと変わらない森の中だったのだ、少なくとも自分の印象では。
郵便局があるところが中流域以降の中心集落、と思っていたのだが、その周辺は自分が当初想像していた光景と全く違ってなかなかその差を埋めることができない。
近くに公民館の建物があり、林業関係の看板のある家屋もあり、周囲の藪をよく見ると石積みがあって畑か家屋の敷地であったことが見て取れる。
頭の中で、今は生い茂っている草木を取っ払ってそこに家屋や耕地があることを想像することで、ようやく「集落」であった頃の姿を思い描くことができる。
けれどじっくり見渡してその変換作業をしない限り、例えば車で通り過ぎた場合だったら「あ、ちょっと家あったな」くらいの印象ではなかろうか。
恐らく商店もあり、ある程度人の集まる場所だったのだろうけど、今の光景からそれを想像することは難しい。

f:id:seonious:20200120221811j:plain

f:id:seonious:20200120221847j:plain



 
一台、車が停まっていて作業されている方がいたので少し話を聞くことができた。
60歳だというその男性はこの集落の最後の住人だったという。
林業が栄えた時代は人が多くいたが需要が少なくなって一気に廃れ、仕事が無いから人が離れていったという。
今は下流安芸市の方に居を移して時々こうして家を見に来るのだそう。
はっきり住人の方に聞くのはショックだったが、やはりこの集落だけでなく、上流部の数戸のみを残して、中流域の30キロに渡って点在していた集落全ては無住の地となっているとのことだった。
 
常識的に考えて、仕事が無ければ学校を卒業した若者は集落に戻ってこない。
何とか山で仕事を見つけるか麓の街まで通勤するかという可能性もあるけれど、家族ができたら今度は教育の問題がある。
小学校まで1時間以上かかるような環境で周りに友達もいない、そして高校以上を考えるとさらに遠くなる。
そうして現役世代は山を離れざるを得なくなり、残るのは高齢者ばかり。
支え合えるだけの絶対数がいるうちはまだ機能するのだろうけど、買い物の問題、医療福祉の問題を考えると、市街地から遠く離れた土地は徐々に人が減ってゆく中で限界を迎える時は早くなるということかもしれない。
 
山の集落が廃村となるのが今に始まった話でないことは知っている。
車の通れるような道も無い、急傾斜を上った先にある小集落など、道路の敷設から電気電話などインフラ整備の問題もあり、行政主導で集団離村を促したりするケースは高度成長期頃からあった話で、豪雪地域の山村集落などで多いと聞く。
けれど今見ているのは孤立した小集落ではなく、一つの地域社会を形成していた村落全体での話になっていて、この単位で完全に無住となるほどの事態が起こっているなんて想像もしていなかった。
 
過疎の問題はゆっくりゆっくりと進行していて、それぞれの単位では関わっている人の数がごく少数ということもあって大きなニュースにはなりにくいということもあるだろうか。
とは言え、自分がしばらく目を向けられていなかった間に取り返しのつかないところまで来ていたこと、それに気づかずにいられなかったことに少なからぬショックを受けた
「ちょっとどうなっているんだ」今起こっていること、ここに至るまでにどんな過程があったのか、知っておくべきことが山ほどあるのではないかと思い、それが今に至るまで継続している。
 
ということで、これまで見知ったこと、そこから考えたことなども、できる限りここで書いてゆきたい。
音楽や酒のことも、書きたいこと色々あるけれど、ここしばらくで山に行きまくって見たことがまだ伝えられていないので山村の話が多くなると思うのだという宣言を一つしておいてひとまず区切り。
今回の旅はまだ続くけど、一旦ここで止めて次回に。