はりまノマド

西明石「地酒と辺境 はりまのまど」瀬尾亮ブログ

夏休みのお迎え

一学期が終了ということで山村留学に行っていた次女を迎えに行く。

今回は長女と二人で。

一泊したかったのだけど、大人も子どももそれぞれの事情がある訳で、二日続けて自由にするのも難しい。

しんどいけど日帰り。

 

木頭に着いてからはまず小学校で担任の先生と懇談。

役場支所で書類提出、昼食は何度も前を通りながら初めて入った「KEN's ギャラリーカフェ」。

亡くなった写真家のご主人の写真のギャラリーも兼ねていて、時代時代の地元の暮らしを写し取ったその写真にも見入ってしまう。

素敵だった、この村のことや山の暮らしを知る手助けにもなる。

 

お土産買ったりしていたらお迎えに北川集落に着いたのは14時過ぎになってしまった。

この村でもう少しゆっくりしたいと毎回思うけど、案外駆け足になってしまう。

 

帰りは高知側に抜けて香北町の山の本屋さん「うずまき舎」に寄って、本を買う。

自分の興味の範囲を拡げてくれる書店、四国の山には素敵な場所がいくつもある。

 

晩飯まで食べて遅くなったなと思って高速に乗ったら、行先間違えて無駄に高知インターまで往復。

山奥の暮らしに馴染み切っていた次女は高知の街の夜景が眩しかったようで、それが収穫だったのかもと思うことにする。

出羽島

2019年

5月4日

次女を木頭に送りに行きがてら、牟岐沖にある小さな離島、出羽島へ。

人口70人。

このサイズの島の雰囲気、懐かしさを感じる。

最近は山村にばかり目が行ってしまっていたけれど以前は色々と離島の旅をしていたことを思い出す。

20年ほど前の話。

当時も僻地と呼ばれる土地を巡っていたので、こういう本当に小さなコミュニティに人々が暮らす光景にはよく触れていたのだった。

 

けれど1世代近い時間を経て、島に暮らす人の事情は変わっている。

20年前にはこの島にも学校があったけれど、今はない。

今は70人程度という島の人口も以前はもっと多かった筈だ。

当時も、その以前からも、僻地は人口がどんどん減っていく流れの中にあるのは感じていたけれど、離島は比較的郷土意識が強い印象があった。

一度外に出ても、ある程度の年齢で島に戻ってくる人たちがいてコミュニティが維持されているように見えていたのが、変わってきているのか今ここでは事情が違うようだった。

子どもは一家族の3人だけ。

遠洋の仕事を引退して島に戻って近海の漁師をしている人たちはいるけれど、次の世代までは見えてこない。

 

 

四国本土まで3キロ15分程度という近さゆえに、暮らしの拠点を島に置かなくなっているのかもしれないけれど、離島の事情も時代とともに変わってきてるのだということは実感した。

 

東京から関西までの帰途。
青春18切符使って、ちょーっとだけ寄り道。

長野茂田井の武重本家、「御園竹」という酒を飲ませてもらって、たまらない味わいだったので蔵まで来た。
中山道の宿場町。
ここで造られ昔から飲まれて来たという土地で酒を買い、飲むのは格別。

元々酒の味は旅で覚えたようなもの。
二十歳そこそこでゆっくり土地に交わるような旅をしていたら行く先々で縁あって酒を振る舞われる。
その頃は好んで飲んでいた訳ではなかったけれど、後に同じ酒を口にすると土地の記憶が蘇る。
それで長い時間を過ごした沖縄の泡盛を毎日飲むようになったのだった。

そんな流れだったから酒の味だけでなく、飲まれている土地のことを考えて飲みたいと思う。
ほとんどの蔵は先祖代々酒造りをしていて、その味はその土地の日常に入り込んでいた筈だから。
旅をしてると「酒は色々あるけれど、こいつが一番だ」という言葉とともに振る舞われることが多い。

今日訪れた竹重本家のある茂田井という土地はまさに風景と照らし合わせる面白みがあった。
地図だけ見たら内陸の農村地帯の集落と見えたけど、小さいながら趣のある中山道の宿場町。
この小ささが、決して強いクセがある訳ではないけど、他のどこにもないだろう独特な酒の味に似つかわしいと思った。

一生を一つの土地を離れずに過ごすことが珍しくなかった時代なら、年中行事のたびにこの酒を飲んで育ったこの土地の人間は、よその酒を飲んだら「変な酒だ」と思ったのかもしれない。

そんな想像もしてしまう。

またこの味を口にするたびにここの光景を思い浮かべることになるのだろう。

そういう記憶の積み重ねを考えると自分もそれなりに長く生きてきて、長く酒を飲み続けてきたのだなと思う。

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稲美町の井澤本家

 

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明石の隣の稲美町、田んぼや畑ばかりの土地に酒蔵があるなんて最近まで知らなかった。
ホームページの案内地図とグーグルマップを慎重に照らし合わせながら、畦道を少し太くした程度の道を辿ってようやく見えてくる「倭小槌」の幟。

格式は感じるものの田園地帯に点在する農家のほんの一軒。

そこが造り酒屋「井澤本家」。

て言うか、井澤さんち。

案内板も何もないから、「通りががりにたまたま見つけた」なんてことはまずあり得ない。

 

迎える狸じみたご主人は「ここまで来るんは、お主も好きもんよのぅ」という態度。

酒好き、その中でも普通でないものを求めている客だということが前提になっているような応対。

明らかに「好きもんのための酒」を造っているのだという自負を感じる。


入口土間の売店には「中田英寿さんお気に入りの酒」だと、純米吟醸酒に張り紙。
どうやら本人がわざわざここを訪ねて買いに来たらしい。

一応そういうことはアピールするのだな、と思ったが、ホームページにもそんなこと書いてなかった。
年に何人訪れるかわからないような直売場のお客さんにだけアピールする重要情報。
商売っ気があるんだかないんだかわからない。

自家栽培米の純米吟醸なんてのもあったけど、まずは基本の本醸造と純米生原酒を購入。
帰って封を解いたら1分ほどして生原酒の蓋が天井に飛んでいった。
何のインフォーメーションもなかったが発泡していたのだった。

飲んでみて驚き。
発泡感があるけどすごい旨味の強さ。
一発で惚れてしまった。
「まごころ」だなんて、どっかの道の駅とかで売られてそうなありがちな名前つけておいて、変態度高し。
本醸造も凄いコクの強さ。

いやしかし、なんでまた播磨という土地にはこんな知られざるオモロい酒造所ばかりあるんだろう。
明石の太陽酒造や西海酒造や茨木酒造のように、きっと地元でも余り知られていないんだろうけど、ホンマによそとは違う自分の酒を造ろうとする酒蔵が身近に幾つもあるというのは喜ばしい限りだ。

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家を建てること

家を建てている。

と、エラそうに言えるほどのことではない。

基本大工さんが建てている。

内装だけ自分でやっている、という程度だけど、一応全部プロに任せきりではなく自分でできる部分は手を動かして作業している。

 

そもそもは店の内装を自分たちでやったことがきっかけだった。

一つ目の店を友人の言いなりになってよくわからないまま紹介された大工さんと一緒に自分も作業に入れられて、かなり大がかりに大工仕事して造ってから、二つ目の店の時には自分が主体で大工さんにも手伝ってもらってがらんどうの事務所だったところを四つの部屋のある店に仕上げるところまでやった。

その流れで、家を建てるとなった時にも、そりゃやるでしょ、内装だったらまあわかるし、それ以上もナンボかはできるんちゃうん?と当然の流れでなっていた。

 

店の内装やる時に参考にしていたのが、元々素人だった人が自力で家を造る本やネットで調べてみて初めて知ったのだけど、世の中素人でも本当にゼロから全部自分で一軒家を建てるような人も案外いるもんで、そういうのを見るに全ての工程が決して素人に手の出せないような難度という訳でもないことが知れる。

おのずと自分もという思いが膨らんでいくのだけど、時間と手間と安全面も含めた出来上がりの精度ということを考えると、全行程自分でということは現実的でない。

重要なところは本職にお願いしようかと、それを前提に何をできるかを考えてゆく。

 

そうして、実際に工務店さんに相談してみる。

まあ、そんなに大手というほどでもない地元の工務店さん。

自力建設ということについてある程度は応じられるけれど、建築物に対する保険というものがあるから、そこに関わらない範囲になってしまうという。

というのは、住み始めた家に何らか不具合が現れた場合、保険が適用されることになるのだけど、修繕の作業を行うのは建てた工務店ということになる。

そこで例えば雨漏りがあった場合、工務店が屋根下地を施工して、屋根材は施主である自分が施工した場合、その責任をどこに問うべきかが難しくなる。

ということで、雨じまい、耐震に関わるような重要部分は全て工務店側にやってもらうことになる。

家の基礎、骨組み、屋根や壁にサッシ入れるところなど。

そこから先の作業で、外壁の仕上げ、壁の断熱材、床板張り、壁の仕上げ、というところを自分の仕事としてもらうことになった。

 

 それから電気。

電気の配線工事は壁に仕込むところが多いので、内装の進捗状況に合わせて電気屋さんに来てもらわなければならない。

外注するとその都度相手を待たせたり待たされたりがあって効率が悪いので自分でできれば割合スムーズにいくのだという話。

それに加えて今回、太陽光発電した電気を蓄電池にためて自家消費、ということを考えていた。

余った電気を売電するというやつでなく、自分のところで全部使い切るために、電力会社から来た電気と別系統の配線を用意しなければならない。

そういうややこしいことを考えていたから自分でやれるのが一番だとは思っていたのだけど、電気工事士の試験は年に2回しかない。

タイミング的にとても間に合わないから諦めるしかないかと思っていたが、工事の前段階から諸々事情が重なって、着工が大幅に遅れて試験の合格発表の時期までずれ込むことになってしまった。

ということで、受かるという確信はないままに電気工事もするということにして受験、ちょっと際どかった気もするけど、何とか合格の通知をもらったので、電気工事も自分でやることになった。

 

そういう流れで、8月に基礎を着工、9月半ばに棟上げをして大工さんが屋根の下地、基礎の断熱、壁の下地など造っていってくれる中、10月後半から自分も電気配線から入って部屋の床板張りも始めているというのが現段階。

ここまでの細かいエピソードも色々あるのだけど、ここまでの経緯をざっくり書いておけばこんなところだ。

 

目標は年内引っ越しなのだが、午後からは店の仕事に出るために昼過ぎまでしか作業できず、じわりじわりとしか進まない状況でもう11月末。

そろそろ先延ばしを宣言すべきなんではないかと思ってる現時点なのだ。

自分のこと

瀬尾亮。

1975年兵庫県生まれ。

明石市で育つ。

1996年ほぼ一年日本各地を歩きと自転車で旅する。

この頃の全国の地方都市を見られたのはいい経験だったと思う。

 

1998年より東京。

即興演奏中心に演奏活動を始める。

ずっと音楽が自分の中心にあった。

 

2003年アフリカへの旅。

あの大陸にいることで得られる高揚感は代え難いものがある。

 

2007年東京世田谷にてタイ古式マッサージ深呼吸開業。

店やることで大工仕事からアロマハーブ園芸などそれまで無縁だった色々を覚えた。

2011年地元明石に転居。

2012年深呼吸西明石店開店。

東京と明石の違い、中央と地方の差というものは、転居してすぐより、店を始めて地元に根を下ろしてゆく中でじんわり感じ始めてきた。

 

東京と明石を行ったり来たり。

徐々に地元にいる時間が長くなって、東京、地方都市、さらに田舎、の諸々の差異を意識するようになっているのが今。